Saturday, April 30, 2011

なんだか最近

生活や仕事にハリがない毎日を過ごしている。
震災後、街を歩いていても、仕事をしていても、違和感がある。
心から笑えるときがない。ぽっかり心に穴があいてるみたいだ。



Sunday, April 24, 2011

東日本大震災

4月10日、実家の復旧作業の為、久しぶりにあう姉ちゃんの旦那さんや従兄弟、兄弟が集まる。いつもは恒例行事的に集まり、気を使ってギクシャクしていた親戚の人たちと床下のヘドロをバケツリレーで取りながら妙な一体感が生まれた。皆の会話が弾んだのがすごく嬉しかった。
それから約10日間、実家に残り復旧作業を手伝い一段落ついたので、東京に帰ってきました。

Wednesday, April 20, 2011

東日本大震災

4月9日、本来なら岩手県の沿岸部に行く予定だったが、僕は残る事にした。
実家にはまだまだ、やらなければいけない作業があって、両親だけではとてもじゃないが、できないと思ったからだ。二人をおいては行けないと昨日強く感じた。
先輩も快く同意してくれた。


まずは床下にたまったヘドロ取りから。







東日本大震災

4月8日夕方、日も落ちてきたので名取市から東松島市の実家へ。
先輩が運転中、睡魔に襲われながらなんとか19時30分頃到着。
久しぶりの実家の玄関を開けようとすると開かない、真ん中から開けろと中から声。地震で開かなくなったみたいだ。
10畳くらいの茶の間を見ると、5畳しか敷いていない。ここで食事なんかをしてるという。正面の砂壁はベロリとはがれ落ちている。1階全体が水没してしまったらしい。
寝るのは2階。奥の座敷は床板がなく、床下が丸見え状態。
家がもう限界だと言わんばかりに、家中が壊れている。
築40年は建つであろうボロ家を親父は愛している。僕が小さい頃から、この家は基礎の木が立派だからどんな震災がきても大丈夫だと自慢されてきた。小学生の自分に自慢されてもな。

4月7日の大地震があったときも尋常じゃない揺れに、おかんはもうだめだ、家がつぶれると思ったらしいが、その時親父は、頑張れっ家!!と、叫んでいたという。そのお陰か分からないが今も家はなんとかもちこたえている。

到着するなり、ご飯を食べながら、震災の話題で暗くなる。どれだけ恐い体験をして、ここまで復興してきたのかという苦労話。知り合いの家や人が流された。避難所の生活。被災地の現状。
もう分かったから。という自分の態度に対して、お前らは何も分かっていない!と。
少し酔って話し続ける親父を普段はまぁまぁ、と止めるおかんも、黙って聞いてる。
いつもの、明るく客をもてなす余裕が感じられない。想像以上に両親は精神的に疲れていた。
その夜、寝る前先輩が、俺ら来ない方が良かったのかな、と漏らした。僕はなにも言えなかった。


東日本大震災

4月8日、相馬市から宮城県亘理郡を経て、宮城県名取市へ。
その光景に、言葉をなくした。
テレビだけではピンとこなかった。
これは本当に現実に起きた事なんだと実感する。











東日本大震災

4月8日の14:00頃、福島県相馬市到着。
自衛隊などの緊急車両が多くなってくる。
相馬バイパスから海側の地区は瓦礫が散乱していた。




















東日本大震災

4月7日の夜、被災地である実家に帰省して親の無事を確かめたいのと、わずかだが物資を被災地の各地に届けたいという想いで出発した。
先輩とレンタカーを借りてひとまず、ドンキーに買い出しへ。
23時30分頃、車で走行中ラジオから、現在スタジオで揺れを感じていますと聞こえるが、いつもの余震だろうと気にせず、店内へ。
間もなく、先輩の携帯、自分の携帯に、地震大丈夫?と数人から次々と安否を気遣うメールを集中的に頂く。
事前に今回の帰省の事を伝えていた両親からはメールで、「絶対に帰ってくるな」とだけメールもらう。これはただことではないと思い実家に電話するも繋がらない。
買い物を済ませ、先輩の家に寄り、テレビをつけてようやく事態を把握。宮城県沖でM7.4 。
本当に行っていいのかとすごく不安になった。






Sunday, April 3, 2011

happy birthday!!! かっちゃん!



悪魔ではありません。

天に召されたわけではありません。